二〇〇〇年 平成十二年三月発行
一九九九年 平成十一年度 第二四回会報より 玉野叔弘

土佐錦魚 丸鉢 思考 五

 丸鉢思考四から二年の間を空けてしまいましたが、その間に丸鉢を巡る周辺が急展開を見せてしまいました。丸鉢を造ろうとする人の少なかった時分からすると、土佐錦に対する関心が高まったことと喜ばれます。土佐錦がやっと東京に来た頃、扱っていた人の中には、
「東京には東京の土佐錦があればいいのだから、飼い方を教わることも丸鉢も必要ない」と言う人までいました。
「土佐錦魚は外で飼う金魚ではない。室内で飼う金魚だ」と言う人もいました。
 我池にテレビ局の人が取材に来た時は、夕方でした。
「なんだ、外で飼っているんじゃないか。室内って聞いてたから、夕方来てしまった。これじゃ写らないよ。新宿バックにいい絵になったのに」
 そんなイメージを消し去るのに、かなりのエネルギーと年月を費やしました。今の皆さんには信じられないことと思われます。丸鉢の必要性もしつこい程言い続けて、やっとやっと土佐錦魚には丸鉢と定着してきました。
 するとどうでしょう。丸鉢が氾濫しそうな気配です。丸鉢思考を六年前に急遽書き始めたのは、何故か気がしたからなのですが。これ程あちこちで始まるとは想像つきませんでした。二年遅らせなければ、幾らかは役に立ったのかもしれません。怠慢をお詫び致します。
 これまで丸鉢の経緯や、丸鉢とはどのようなものかを、堀を埋めるように書いて行くつもりでしたが、取り急ぎ、今回では結論に飛びついてしまいます。
 二年の間が空いてしまったので、初めて読む人もいるでしょうから経緯も解りやすく、繰り返しがあることも含めて目を通して下さい。
 前項の《土佐錦魚は》に尾は土佐で創られた要素が多い、としてあります。体は掛け合わせで出来そうですが、尾はどの金魚をしても土佐錦魚の尾はなし得ません。土佐のいごっそうと、陽射しと、丸鉢が有ったればこそ、あの尾が出来たのです。
 どれを欠いてもできません。その丸鉢が擂り鉢だったのです。あの擂り粉木棒でごりごり擦る本物の擂り鉢です。土佐は自然産物の宝庫です。水産物の加工に、二尺の大きな擂り鉢が職業用として使われていました。蒲鉾とか揚げ物を作る時です。今でも特産物です。昔その擦り鉢に錦魚を入れた人がいました。そして土佐錦魚は、そこに集大成を見せたのです。偶然かも知れませんが、もし意図的試みであったとしたら、その人は大天才です。
 須賀氏にせよ、その人にせよ、土佐にはいますね。その辺りをもっと田村翁に突っ込んでおけばよかったと後悔しています。擂り鉢へ入れることによって、平付けがバシッとして、反転が大きくなると同時に、より前に来るようになり、今でも丸鉢で飼い続けると尾が大きくなるように、尾が現在の土佐錦魚のように大きくなったのです。もし、タタキで飼い続けていたら、山付けがとれず、前が流れていて、ちょっと変わった流金程度に、留まってしまったかも知れません。その擂り鉢が完成度の高い丸鉢であったことは、果たせるかな偶然の成せる技でした。
 その後セメントが普及して来ると、焼き物の不自由さから自由な丸鉢造りが始まりました。もっと良くしたい理想の丸鉢への心が、頭をもたげて来たのです。その頃の人も上面を広げたり狭めたり、浅くしたり深くしたり、角度を立てたり寝かしたり、それでも擂り鉢から抜け出すことは出来ませんでした。
 野中進さんより以前でも、お椀型に似たものもあったかも知れませんが、定かではありません。
「擂り鉢は水が沸いて適わん。下(一階)で仕事をしていると上(屋上)が気になって仕事におよばん(仕事が手に付かない)」
 昔のほとんどの人は、地面の上で飼っていたでしょうが、時代ですね。ベランダとか屋根の上に置く人が多くなってしまいました。床のコンクリートやトタンの照り返し、蓄温、放熱、冷え込み等過度の条件が加わります。昔より仕事が忙しくなったのか、時間が速くなったのか、世知辛くなったのか。ともかく野中進さんはアルミを叩き出して型を造りました。器用なんですね、それと熱意。
 沸かないためには深くする、底面を広げる、アールを付ける。アールを付けると日陰が出来る、水量が増える、底面との繋がりがなだらかになって、広げたイメージになる。事実朝、ちゃんと手入れをしていれば、沸かなかったそうです。
 穏やかな対流が水の急変も穏やかにして、魚の出来も穏やかにしました。別の境地を開いた感があります。強いてですが長い目で見ると、仕事に打ち込めることが錦魚のためにもなったようです。ただ付け足すことは、擂り鉢型より更に良い魚を作るにはの、発想ではありませんでした。どちらかと言えば楽な方向を向いています。それは私が縁に立ち上がりを付けたり、アールを付けたりするのと同じ、やはり魔法の鉢の方向なので、私には言う資格は無いようです。
 お椀型も擂り鉢型を熟知していたからで来ました。お椀型によって擂り鉢型を否定した訳ではありません。むしろ、時代背景がそうさせてしまったかのようです。野中進さんは昔ながらの擂り鉢型を捨てた訳ではなく、一緒に置いていました。おそらく魚によって使い分けていたはずです。
 九九年の夏、立ち上がりアール付きの鉢でしたが、六月の無線別分譲魚がにわかに尾を下げ始めてしまいました。浅瀬型では下がる気配がありません。立ち上がりアール付きの鉢の魚を浅瀬型に移すと直ってしまいました。その間、下げ始めるのに三日、直るのに三日、六日間の出来事です。気がつかなかったり、魚の血統だなと決めつけてしまうと、機会を逃してしまったでしょう。その後、尾の流動期が過ぎると立ち上がりアール付きの鉢でも下がりませんでした。むしろ少し後では立ち上がりアール付きの鉢の方が、かえって安定し始めました。
 野中さんの屋上にも擂り鉢型がありました。そして一階にも。そして、どうしてか良い魚が出来る幻の鉢も擂り鉢型でした。
 丸鉢は擂り鉢型に始まり、擂り鉢型に帰してしまうようです。
 その間に各人各様、飼い方、環境に合わせた改良型と称する鉢が存在します。
 近年、まるで半球の底を切ったような鉢が出回り始めました。その鉢はどの魚の型を求めているのでしょうか。どの実績ある丸鉢の改良型なのでしょうか。どんな銘魚が作出されたのでしょうか。市販されている植木鉢の改良型なら納得です。それならまだ、植木鉢の方が土佐錦用と言わないだけ、良心的です。
 これまでの丸鉢の変化は、擂り鉢型より《もっと良い魚を作れる鉢はないだろうか》から出発しています。そして環境の変化から止むなくアールを付けたりしました。それは、土の上からトタンやコンクリートの上にのるようになったからです。土の効用、風や鉢からの気化熱で賄いきれなくなったからです。
 擂り鉢型に欠陥が生じた訳ではありません。出来る魚の形に満足できなかったからではありません。原点はもっともっとの追究心です。新しい鉢を造ったり薦める場合は、
その鉢の目指すところ、
予想されるところ、
一年程度の実績、
参考に出来るところを示すことが、勇み足にならずに済むでしょう。
 ここで批判の矢面になっている、半球型に触れてみましょう。お椀型と共通するアールですが、お椀型はその日になんとか沸かない限度になっています。それは強い陽射しが必要なことを知っての上です。屋上に置いたことによる必要最小限の妥協です。
 半球型はその弧によって影が多過ぎてしまいます。水量が増え過ぎます。これは成長させるには好条件ですが、それを得たいなら大きな池や角鉢でも、日除け板でも出来ます。それでも泳がす時期には、なんら支障を感じないかも知れません。現れるのは留める時期です。条件の良過ぎは泳ぎを止めづらくします。お椀型でさえ出来が緩やかなのに、もっとなり過ぎてしまいます。
 水温が好条件のため、食欲大勢になり、食べ過ぎて鼻瘤、肉瘤、背瘤の瘤付きになったり、食欲を満たさないと体長は伸び、大きくなるが腹が出ない。最悪腹が出なくて瘤付きになる。泳ぎ過ぎによって尾が流れ、決まりにくい。日影によって尾にシワ、上り下がり等余計なものを加えてしまう。温度変化が穏やか過ぎて魚に締まりが無くなる。
 夏の過酷な陽射しに魚は涼を求め、秋を待たずして底に留まります。この時期こそ尾は大きな変化を伴い、泳ぎによって培ってきた要素を、迫り出しとして、抑えとして、張りとして、付きとして表現し始めます。夏の暑さに留まらず、秋の冷えを過度に緩和して、止まらず泳ぎ続けたら、表現する機会を逃してしまうでしょう。
 丸鉢は一重に、いかに泳がすか、如何に留めるかの苦悩を解決する型なのです。
 そして、傾斜の角度や底面積で対流の強さが異なり、前極め、張り、上下、シワ、体型と、重大に且つ繊細に影響を与え、支配してしまいます。
 半球の弧はこれを補うにあまりある労力と時間と魚の犠牲を強いてしまいます。ただ、救いとしてこの穏やかさは当歳に邪魔ですが、尾の決まった二歳魚、親魚には好都合です。過酷を求める丸鉢は作用、大きさから言っても二歳、親には向きません。そこで半球型は穏やかさ、大きさからも二歳親向きと言えます。二歳、親でもシワは出来ますので御注意を。
 植木鉢にも多様な型が出回っていますが、一工夫が必要です。保温(この辺りは次号で触れたいと思います)は言うに及ばず、底面、側面の加工に是非手を加えて下さい。例えば陽当たりの少ない場所の人は、底を厚くして保温を良く、水深を浅くすることを同時に補い、角度を寝かして陽受けを多くする。陽当たりの良い場所の人は、角度に拘ってみる。きっと番付けが上がること請け合いです。
 土佐錦魚を飼い始めた人はいつか《何故こんな苦労をするのだろう》と思う時があります。馬鹿馬鹿しいと思えた人は止めてしまいます。続けた人はのめり込みます。そして手を惜しみなくかけます。そして、慣れた時分に自分の手抜きに気が付きます。これが二度目の壁と言えましょう。そこで再び手をかけることに喜びを見いだすか、手抜きの楽に流されてしまうかで、大きく道は分かれて行きます。擂り鉢に戻るか、角鉢や大差ない楽な鉢に甘んじるか。双方に同じ労働を費やしたとすれば、成果は歴然と現れ、あたかも掛け離れた血統のように形を変えてしまいます。
 貴方は土佐錦を、手を抜くために飼っていますか。
 丸鉢は手をかける楽しみを倍増してくれます。
そして、丸鉢は、
そして、土佐錦は、
 かけた以上に答えてくれます。

つづく

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