一九八八年 平成元年七月発行
一九八七年 昭和六三年度分 第十三回会報より 玉野叔弘

土佐錦魚私考 二

 小学校を卒業すると彼は家へ帰りました。そして、淋しくなると一人で遠足に行きました。多摩川で釣りをして持ち帰った魚はみんな、死んでしまいました。彼は取り残された気がしてたまりませんでした。
「どうしたら生きてくれるの」ついに金魚の飼い方の本を買いました。一週間もたつと、縦二メートル、横一メートル、深さ一メートルの池を造ってしまいました。やがていろいろな魚が暮らして卵を産むようになりました。
 高校生で一人暮らしを始めた私は、肩肘を張り世の中に突っ張ることを覚えていました。自分の考えを信じて学ぼうとしませんでした。
 学生の頃でもただ夢中で錦魚を孵し、毎年何千尾というハネを捨てていました。何万かもしれません。無造作に床に叩き付けていました。奇形の魚には憎しみさえ込めていました。やがて乾涸びた躯の上を平気で歩き、雨に濡れた悪臭を気にも留めず世話をしていました。ただ数尾の良魚を手に入れるために。
金魚屋さんが引き取ってくれる話も有ったのですが、持って行く時間が惜しくて、ひたすら良魚の世話をしていました。ハネを入れる池が有ったら、殺してでも良魚を入れていたことになります。次第に下水へ流したりどこかの池に逃がしたりしました。捨ててしまうより金魚屋さんの方が少しでも長生きさせてくれるのでは? 可愛がってくれる人に飼われれば幸せになってくれるかな? 金魚屋さんにも足が向くようになり、自分の孵した魚がお金に換わる後ろめたいような嬉しさと、家族への負担がいくらか軽くなることも解りました。その分は早起きすればいいじゃあないか。池で足の踏み場が無くなる程に増えました。
 そんな冬に思わぬ怪我をして、二ヶ月も天井を見っぱなし、不自由の辛さと、人の世話にならざるを得ないもどかしさと、有り難さが身に染みました。明くる春、無性に≪産卵させなくては≫の気にかられ、体の許す限りの子を育て、体の限界も知りました。
 体も晴れて着た日曜日、「教会へ行かないか」私にとってただ一人の親友が誘いに来てくれました。懐かしさも手伝って出かけると、私から見ても風貌の変わった人に紹介されたのです。私は錦魚の一通りを話しただけで別れたのですが、その人が後で友人へ言ったそうです。
「あの人は神に近いところに居る人だ」
 その時はとんでもない冗談を真に受けてなるものかと、はじいていましたが、考えさせられる言葉でした。私の話を彼はこう受けとったに違い有りません。私が錦魚の命を握っている。親の選定からお産婆さん、飼育、選別と運命を左右でき、活かすも殺すも産み出す事すら、自由にしているからではないでしょうか。だとしたら神とはそんなに簡単な事でしょうか。
 もう数年前になります。高知を訪れた折り、矢野城桜氏が申されました。
「土佐錦の供養をせねば-------------」
 無意識に聞き流してしまいましたが、今、何気なく思い浮かんでなりません。
 神って何だろう。運命って、命って。そんなに簡単に答えが出せるものでは有りません。私は逆にこう感じました。単に欲望だけで命を形にし、また、抹殺するのは悪魔でないだろうか。自分の意にそぐうものには刃を貸し、そぐわぬものは邪険にする。まるでヒットラーみたいなものだ。身震いするような事をしているのだ。
 たとえ気がついたとて何が出来る。錦魚は止められないし、さりとてハネなければ良魚は育たない。それどころか全部がハネになって、残る命すら駄目にしてしまう。生き物を趣味にした人のテーマがどうしても残る。
 創世記のアダムとイブが食べたリンゴは、肉食だったのではないだろうか。殺し食う事に目覚め、果てしない生命の欲求へと繋がって行くのだ。そしてその欲と慣れが、いとも簡単に他の命を断ち切ってしまう。やはり悪魔の成せる技。
 私が神の近くに居るならば、必ず悪魔も側に居る。

つづく

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