一九八四五年昭和六十年三月発行分(六一年三月発行)
一九八四年 昭和五九年度分 第九回会報より 玉野叔弘

土佐錦魚審査思考 三

 序の余談の台本

ご隠居さんちの庭先の池。
いつものように水替えを済ませて、金魚を眺めているご隠居さん。
見所はあるがなかなか良くならない一尾の当歳魚が、丸鉢を泳いでいる。

裏から八が気楽に入ってくる。

八「ちわっ、金魚もらいに来ました。」

隠居「おいおい気軽に言うない。」

しばらくあっちこっちの丸鉢を見回していた八っあん。
ふと考え込んだご隠居。

隠居(八んとこは陽当たりもいいし何たって熱心だ。くれてやるか。)

八「この型の魚まだもらっちゃないんで、いいすか?」

隠居「馬鹿言っちゃいけないよ。わたしゃお前さんの飼育係じゃないよ。」

八「こんなにいい魚ばっか抱えこんで一体どうすんで?」

隠居「しゃーない。持ってけ泥棒ー!」

すっとんで帰る八。

八「いただきー!」


金魚の並ぶ研究会の会場。
ビックリした顔で優勝魚の前につっ立っているご隠居さん。
見覚えのある魚が前を使っている。

八(しまった)

心の中で呟いたものの、

八(おっとここでねじれちゃ男が廃る。まったく良く世話したもんだ。私んとこじゃーこうはなるめぇ。良かった、良かった、それにしてもべらぼーめ。)

ご隠居さん、八を見つけて

隠居「おい、八よ、てーしたもんじゃねえか。シャッポ脱ぐよ。」

賞品を持って、頭かきかき

八「へへー。お陰様で。
ご隠居、皆にね、ご隠居さんとこはこんなのばっかし泳いでるって言っちゃったんで。
ご隠居さんは人が出来てるから行ってみなって。
堪忍堪忍。」

逃げるように洗面器を片付けに行く八。
おだてられたり、すかされたり、なんとなく帰ってきたものの、奥歯に物が挟まったようで釈然としないまま、それでもあげる魚の選別を始める。

それから三年後の熊んちの池。
そんなことはすっかり忘れたご隠居、天気も上々、ぶらりと現れる。
気に入った魚を見つけたご隠居、

隠居「こいつを種にもらえめーか。」

熊さん、二つ返事で。

熊 よーがす。
そいつぁ、ご隠居が八にあげた、あいつの孫でさー。

帰ってから丸く泳ぐ姿を見ると、無性にうれしくて嬉しくて。

審査のポイント

 では判定の目で見て行きましょう。まず、判定に際して土佐錦魚に接している喜びを味わい。また、人の魚に触れ、人の魚を批評させてもらうことに感謝しましょう。その魚から得られる確実な良さと、多くのひとが知りたいと思っている良さと、知る必要のある多くのポイントも、引き出すことを忘れてはいけません。
 ここに大きなポイントの一つ“味”について触れてみます。味とは、漠然としていてハッキリ示すことは出来ませんが、味の重要性や意義は一般的に過小評価されています。味を楽しむことができれば錦魚の何たるかを、知るための戸を明けることができるでしょう。味は、今までに引き出すことのできた利点総てによって作られた、目に見えない型を確認することになるのです。味の決定要素は、その魚の総ての利点と欠点とで形作られた、各部位の完全性と調和なのです。繊細で微妙なところまで感心させ、記憶の奥深くに余韻の如く留まるのです。その魚に味を感じた時、閃く印象によって、まつわる記憶を呼び覚まし、本能的に必要な答えを即座に選び出します。こうして実際上審査員は、味を見る上で魚を目の前にして考え込むことはありません。そして、良魚の味は、それだけで、多くの貴重な情報を与えてくれるのです。
 良魚は誰が見ても美しくあり、立派に見えたりもします。それは魚が見る人に訴えかけてくるからです。味はその代表なのです。では、訴えかけて来ない魚はどうなってしまうのでしょうか。分析することも表現することも大変困難になり、そうした多くの場合は、判定に戸惑いを感じ、ありふれた言葉になってしまいます。
  その場その時の判定
 審査は、完成への段階の型をその時の型として、検討することがあります。それぞれの型は、未来を秘めた成長の過程とみなし、それが何年後に、どのような完成を見せるか理論的に推理して、現在の魚に関連させた線上でその時の型を判定します。
 研究会では可能性の評価も加味した上で、その時の完成度の審査を柔軟的に行います。
 大会では、理想の型と照らし合わせた完成度の審査になります。ここでは、理想を追求する頑固さが現れ、妥協は姿を消して行きます。大会での当歳、二歳魚は未だ未熟の段階にありますが、未熟も均衡の一部であって、「それなり」と言う言葉を耳にするように、当歳なり、二歳なりの完成度の審査になります。未熟も若さの特権であり、完成されないものの面白さ、変化して行くものへの好奇心、新しいものへの期待感は、皆さんが毎年当歳に力を注ぐように、とても引きつけられるものです。
 スポーツのように速いから勝ち、強いから、また、大きいから、重いからとハッキリしていれば、最初から苦労はしないのですが…………。
 審査員は時折り会員宅に伺い、錦魚の判定を求められることがあります。この場合、その人の意欲、飼育条件等々に関わってくる背景を考慮した上で、その池から一番の良魚を選び示すことになります。また多くの場合、その池の条件にあった若魚を別に選び、積極的に作ることも進めます。
 個人の池では、魚に共通の利点と共通の欠点を見ることがあります。利点は、飼育、自然条件の肯定ですから、多いに伸ばすように心がければ良い訳ですが、欠点は解消すべく分析、検討して話し合いながら助言をします。飼育条件の穴埋め、手入れの工夫、餌の量、種魚に関しても大いに語りあいましょう。
 逆な見方をすれば、その魚の欠点から自然条件の悪さも、手入れの手抜きも察知するのは容易です。たった一回の水替えの失敗も、その時季の餌の多少も、一生の型として留めてしまうことさえあります。そして、血統的な素質と個体的な良い魚を見つけて、種魚に奨めます。
 素質のずば抜けた魚は、飼い主の失敗なんかどこ吹く風、めきめき良さを発揮します。どのポイントに特徴を持っているか一緒に見つけて、その魚の子になにを求めるか、そして、その期待はどうなるか、興味の尽きないところです。
  目の錯覚
 飼い主が苦心惨たんして育てあげた錦魚ですから、会でも個人の池でも慎重に扱い、目の錯覚は避けたいものです。まず、“自分は見えるのだ”という錯覚を取り除き、謙虚に初心に帰ります。
 始めに長手と丸手の問題ですが、理想の土佐錦は、土佐錦魚参考の絵にあるように円に収まります。丸手も然りです。丸手を理想とするならば、長手はどうなるのでしょうか。
 長手は安定が良く、泳ぎが上手、産卵も上手、おまけに丈夫でそれなりの美しさを持っている。良いことずくめではないでしょうか。反面丸手は長手の良さを欠点としています。
 しかし、丸手でひっくり返りやすい魚は、尾筒の下がりが浅いため、尾付けの角度が立ちぎみのため、体の詰まり、肉の付き過ぎ等々、どこかに不均衡なところがあるためです。一つ一つ克服して行けば立派に安定します。やはり丸手が主流であることは確かです。長手は丸手の難しさの妥協点をたぶんに含んでいます。長手が良いと思えることは、一つの錯覚と言えるのではないでしょうか。
 痩せた魚が長手に見えることがあります。長手丸手は肥った魚か痩せた魚かではなく、尾と体、あるいは渡りと口先から尾先までとの対比なのです。体の長さが尾の長さと一対一であれば丸手の痩せた魚となります。太り過ぎや、尾筒の詰まりで、丸手に見える事もありますので気を配ってみるようにします。
 模様と色も錯覚しやすいものの一つです。色鮮やかで模様も良ければ、こんな素晴らしいことはありません。模様も色も目を楽しませてくれる筆頭でしょう。でもこの色模様が時にいたずらをして、目を惑わすことがあります。真っ白だと嫌われたり、白勝ちだと淋しく感じ、脇腹が白だと痩せて見え、模様が曲がっていると体まで曲がって見えたりします。
 なにか白だと悪い事ばかりのようですが、色の白いは七難隠して、肌が綺麗に見えて粗が目立ちません。同じ白でもクリーム系、ピンク系、特筆する銀白色とあり、その清楚さは他に類をみません。その白の下地あってこそ、更紗の赤が一段と冴えるのです。
 白も色の一つであるように、土佐錦魚特有の色に黒があります。やはり黒にも茶系、青系、そして土佐錦魚本来に銀黒色、黒は総てを無難に見せる上、量感があって力を表現しやすく、他の金魚にとって不利な黒も、土佐錦にとってはむしろ有利になります。
 錦魚を観る時には極力、色の印象を取り去って下さい。魚の型を掴めた時、その上で色を足して行きます。
 仮に型も持ち味も同等で黒と色付きの二尾が居たとします。多少不利な模様でも、白を含めて、健康色であれば黒より上位に並ぶ事は、黒が絶対に白へ変わらない日が来るまで致し方のないところです。
 同じように魚齢に応じた色艶、張り、力を、若さと間違えやすいようです。当歳二歳は若さがあって当たり前、あまり若さを口にしません。三歳は親の中では若さや張りがあるはずです。四歳で親の真価を発揮し、五歳六歳となるに従い型は充実を見せて来ると同時に、衰えが顔をもたげてきます。高齢魚は衰えがあって当前、その時に衰えを見せずに張り艶を持っていることを“若い”と表現します。例えば、二歳が当歳の若さと言うと、何か不自然な感じを受けると思います。それが四歳が三歳の若さと言うと褒め言葉に感じます。でも四歳が三歳と同じ未熟の若さを持っていれば、若いのではなく未熟として欠点になります。同時に七歳は七歳なりに老けていて当然、老いを欠点とするならば、長生きを欠点と見なければなりません。七歳の老いと三歳の若さとでは、三歳を選ぶのが人情ですが、老いた魚には敬意をはらう審査をし、長生きを奨励したいものです。
 若さや色は、印象だけで良魚に錯覚させる危険な面も有りますが、基本型のシッカリした魚にとって、艶、張りや素晴らしい色模様は、それだけで人の目を引き、味魚に選ばれる事さえあります。
 美意識にも十人十色、個性ある審査も面白味の一つかも知れません。そして、その結果を多くの人は、決められた意味のある言葉によって、最大限に受け止めることができるのです。

つづく

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