一九八六年 昭和六一年三月発行
一九八五年 昭和六十年度 第十回会報より  玉野叔弘

土佐錦魚審査思考 四

  四つめの序
 前稿では終始観念的に流れてしまいましたが、さらに本稿は度を増して行くことになりましょう。それは私が教訓として受けとめ、反省あるたびに読み返しているものの、実行も理解すらさもおぼつかないまま書いているからです。左項の言葉もその一つ一つを深く掘り下げ、解明し、列記できれば、教えを全うしたことになるでしょう。しかしながら、小さな辞典ができる程の大きな課題は、私の一生の項目として、コツコツと微力を傾けたいと思っております。

  言葉
 土佐錦魚の芸術性は絵に似ています。ともに視覚に訴えるもので、それを言葉なり文章には到底現せるものではありません。なにも言わずに観賞することは出来ますが、何も語らずに皆さんと意思の疎通をはかることが、できるでしょうか。
 個人の言葉
一、好みの言葉
二、状態の表現
 審査員の言葉
一、興味と熱意を呼び起こす。
二、皆が気付かなかった魚の特徴を示す。
三、イメージを呼び起こし、美意識を高める、
四、共通の用語に共通の意味を持たせ感覚のずれをなくす。
五、初心者にもより伝わるよう、現在でも理解できる用語を使い、伝統的な用語、専門的な用語には説明をつける。

  審査の心得
一、種々の事情を踏まえて幅広い人々の、興味と高い基準を維持するための判定を心がける。
二、判定をすべく鍛錬して身に付けた様々な要素を、繊細な感覚を、楽しみに通じるよう活かす。
三、環境の後退に照らしても自らの基準を下げることなく、あくまでも理想を追求しする。
四、技術の進歩に敏感であり、工夫を心がけ、適切に受け入れる。
五、意見を求められた時には、勇気を持って語る。
 意見を求められた時には自分を飾らず、正直に、大いに主観的審査員でも良いのです。恥じることはありません。それは自分自身の意見であり主張です。こんな時ほど慎重に言葉を選び、多いに人々を感化しましょう。そして皆が心から賛成してくれれば、それは最早客観にもなり得るのです。人々の見方にヒントを与える言葉は、その人の視界を広げ、土佐錦魚を消化する薬にもなるでしょう。
 皆が一斉に視線を集中させている土佐錦魚へ、最終的には審査員の誰もが決断を下すのです。反響を恐れてはいけません。活気ある意見の交換は、人も魚も得るところが大きいのです。
 独断的な人の意見は判断を惑わせます。繊細な人はなおさら迷います。そこで、その影響を意識的に切り離し、自分の鍛錬の一つに組み込んで下さい。必要なときには反対し、共感できる時には素直に受け入れましょう。仲間の意見を聞くことは、別の角度からの考えを別路線として検討する、刺激と切っ掛けになります。
 そして、謙虚な審査員は他人の意見に耳を傾け、自分の意見にも正直です。まして、寛大な会員の質問には、自分の経験の全てをさらけ出します。それはその人が仲間として友人として、いかに鑑定が困難なものかを知っているからです。審査員は、判定を下すことが実際的にどのような問題を伴うか、常に再認識し、審査員どうしも、共通の様々な失敗について同情できるよう、寛容でありたいものです。
 “審査員になると、直ちに人の魚を審査できる権利と名誉を得るだけでなく、権利に見合う責任と名誉を埋める人格をも背負うことになるのです。”

  審査員の役割
一、審査員は伝統に基づいて定められた理想の型を、後世に伝える役目をになう。
 もし審査員が、勝手に好みの型を皆に広めたいとかくし、審査に反映したらどうなるでしょう。それがたまたま時流に乗ってしまったら、土佐錦魚の型は偏り、基本の方から大きく変わってしまう恐れさえあります。過去の先駆者、所先輩方の苦労は、例え百年積み重ねたものでも徒労に終わってしまいます。後進に、土佐錦魚の理想の型とはどのようなものか、正確に伝えることは疎かにできません。百年の計を計って、一時の思いつきや一個人の思い込みによる変形を防ぎ、土佐錦魚をシッカリ守って行きたいものです。
 百年の計には、次の項も加わります。
二、“審査員は土佐錦魚の絶滅を防ぎ、保存のため各系統を認識し、後進にそれを示し、且つ育成に努力する。この時系統を維持しながら血の濃さに気を配り、土佐錦魚全体の血の濃さにも留意する。”
 多くの場合、ベテランの池にはその人独特の型があり、その型は、土佐錦魚の系統が脈々と息づいていることを、暗示します。その系統を保ちながら血を薄くするよう他の血筋を交配します。この血統ごとの相互関係を滑らかに進めることによって、各系統ごとの血の濃さも保たれます。ベテランが多く増えれば、錦魚全体の血が薄まることになります。
 先の項と重複しますが、審査において、一つの血統を総てであるかのように示し続けた場合、多くの血統を失う結果を産み、近親交配の弊害も現れ、目先が太く、こけらが荒く、尾にしわを持ち、強いては絶滅の危険性すら含んでしまいます。
三、審査員は技術の公開に務める
 昔から名人と呼ばれる人々は、その人独自の技術を持っていました。しかし、その技術を持ってしても理想の土佐錦魚は生まれなかったのです。仮に次元を超えて名人達が力を合わせたとしたら、可能性は大きくふくらんできます。技術の公開と後継者とがそれを可能にしてくれるのではないでしょうか。自分で生み出した技術や昔からの秘伝を、己の代で消滅させてしまって良いのでしょうか。公開した技術は底辺を高め、更に新しい技術の研究へと駒を進めます。
「この技術を公開したとて、おいそれとは出来るものではない」という自負を以て公開に踏み切りましょう。
四、審査員は初心者へ錦魚に対する法を伝える
 出来るならばこと細かく、魚の扱い、持ち方、道具の用い方、運搬方法、出陳の心へ、魚への思いやり等々、思いついたら全部伝えて下さい。最初は誰でもが知らないはずです。自分が教えてもらったように伝えて下さい。後進の育成はベテランの使命です。
 初心者に飼育や見方、扱いの方法を伝えるだけでなく、土佐錦魚とはどのようなものか、歴史や伝統を踏まえ、土佐錦魚に接する時の心構え等、精神的な面も重要です。また、初心者のやる気が高まるように持って行きます。例えば、審査においてベテランと初心者の魚が同等としたら、ベテランは大きな包容力を持って、初心者の魚を上に並べて下さい。心ある行為によって、初心者の魚に体する情熱は燃えるはずです。
 土佐錦魚は僅か数年の経験によって悟りきれるものではありません。多くの人が師と仰ぐ経験五十年からの人でさえ「錦魚で判ったところより未だ解らないところの方が多い」と謙虚に励んでおられます。数年、たとえ十年の経験があっても、これから始める人にとって同道の先輩であって師ではなく、また、良き友ではないでしょうか。
五、審査員は礼を以て審査にあたる
 審査の礼とは、自分がされたくないことを人にしないことから始まり、協力と感謝を忘れぬよう心がけます。
 魚は飼育者の性格を如実に現します。魚をののしることはいうに及ばず、批判する時には言葉を選び、飼育者の気持ちに留意しましょう。審査中に元気のない魚を起こしてあげる時、器を足でつついたり、下位に落ちる魚の器を無造作に追いやったりせずに、一度落ちた魚にも復活のチャンスを、落とす魚には慎重な決断を心がけます。
 審査されている魚の飼い主は、審査員の一挙止に一喜一憂しているのです。飼い主と対処してるつもりで行って下さい。
六、審査員は和を以て会員相互の親睦を図る。
 会の運営についての意見、審査方法、魚についての意見は総て、よかれと思って発言されます。もし、対立することがあったとしても、双方ともに意見の動機は、発展から来ているのです。良く話し合えば必ず和解できるはずです。討議を重ねて糸口を見つけ、解決へと導きましょう。会員同士は魚を間にする時、地位も年齢も一切関係のない良きライバルであり、良き友であるはずです。人間同士は和気あいあいに、勝負は魚でと行きたいものです。
 会員は様々な事情の中で魚を飼育しています。誰もが望む環境と時間と体力をもてれば、言うことはないのですが、土佐錦作りの基本の、種魚の管理や子引きから仕上げまでを、一貫して行える人は、むしろ恵まれていると言えるのではないでしょうか。
「俺は総てをなげうってやっているんだ」この言葉は自分に喝を入れる時の言葉であって、他人に強いる言葉ではありません。土佐錦が好きで好きでしょうがなくても仕事が忙しい、飼育場所に制限がある等々は理解できるところです。一貫してできる人と、その人から分けてもらって飼う人とが、半々ぐらいの割合で、会はうまくいくと言われています。審査員は円滑にその間を保ち、人の輪をこしらえます。
 こんなに沢山の役目を聞かされたら、なんだか息が詰まりそうになってきませんか。でも皆さん、こんなことは全部忘れてもいいのです。魚について覚えたこと、興味を持ったことを素直に語りあおうではないですか。それは熟達した人の辿って来た道でもあり、その人の目にも新鮮に映るはずです。
  ここにもう一つ
 あなたが素晴らしい土佐錦魚を飼育しているとします。貴方は何のために、その錦魚を一目にさらすのでしょうか。自分自身のためには確かですが、自分だけのためなら、会に入ることはあまり意義を持ちません。ここに会が何らかの形で関わってくることが想像できます。
 そして、皆との楽しさも、語らいも、安らぎも、お祭り騒ぎの大会も会が育んできました。
 そして、審査は、会員の名誉心、自負心、闘争心、好奇心、向上心を奮い立たせます。
 そして、素晴らしいものを求める人間の本能が、土佐錦魚を守り続けてきました。土佐錦魚は多くの人目に触れるために創られて来たとも言えます。
 そして、見事な土佐錦魚が観賞に値すれば、それは立派に生きた芸術であり、その土佐錦魚は、観た人の心に涼風を与え、その人に、忘れられない思い出をあげることができるのです。
 そして、会はそんな魚と、そうであろうとする魚と、
そんな人々の集まりなのです。

土佐錦魚審査思考 完

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