一九八三年 昭和五八年三月発行
一九八二年 昭和五七年度 第七回会報より  玉野叔弘

序によせて
 この会にとって大切な人を相次いで失ってしまいましたが、私個人にとりましても、心の窓に北風が吹き込んだような、淋しく心細い思いがしました。
 堀切の加藤さんは私にランチュウの手解きをして下さいました師であり、私のようなものでも遊びに行くと、ホーローの洗面器に1尾1尾救い上げ、いろいろと教えて下さいました。先年には、思いもかけず当会の発足に携わりました折にも、総てと言って良い程に会の運営方法から審査方法、そして決して楽なことではないこと、大変な覚悟が必要なことに至る一つ一つを、数夜にわたり膝をつめて指導して頂きました。発会後も何度となく大会を応援して下さり、お顔を拝見するたびに頼もしく感じたものです。

土佐錦魚審査思考 一

 高知の田村さんは私に、土佐錦魚とはどのようなものかという、根本的なことを学ばせて下さいました。お年寄りの昔話を伺いました時にも、ニコニコとまるで孫に話されているようで、私も歳をとったらこうなりたいものと、思わずにいられませんでした。
 全国大会の折り審査員長としては打って変わって、毅然とした態度で示された教えも肝に銘じ、脳裏に焼き付けてあります。
そして、田村さんから受け継いだ魚を広く保存普及した人々は、昔から続いた土佐錦魚の一翼を担い、次の世代に、私たちに伝えて下さいました。皆さんも知らず識らずのうちに携わっているのではないでしょうか。そんな思いで感慨を新たにしてお二人の教えをひも解いてみると、このメモを皆さんにお見せすることはお二人への恩返しと、今まで快く丁寧に教えて下さいました、高知の大先輩の方々の恩に少しでも報いることにならないかと、素直な気持ちで身に余るテーマに触れてみました。

あなたは土佐錦魚のどこが好きですか
 始めに土佐錦魚の美しさについて少し、触れてみましょう。幾多ある金魚のなかでこれほど愛される土佐錦魚は、他の金魚と比べてどこが好まれているのでしょうか。
 私の場合土佐錦魚に魅せられた瞬間『なんて綺麗なんだ』
カトレアの花が水中で咲き誇っているように、
天女が羽衣を風にそよがせているような、
金魚の舞姫を目前にして、しばし時を忘れてしまいました。
 私は既にランチュウに馴染んでいましたので、ランチュウにない別な魅力を感じました。ランチュウは金魚の王様といわれるに相応しく、愛嬌ある眼差しとあのスタイルの中に、気品と貫禄に満ちた男性的な魅力を感じ、そのなかにも女性的な愛くるしい面をも好んで来ました。ランチュウを男性的と感じていた私は土佐錦魚を初めて見た時、ハッキリ女性的な美しさを意識していました。恋人に出会ったような、えも言われぬ恋心を抱いてしまったようです。
 土佐錦魚を見たことのない人が初めて当歳魚を見ても、 「変わった魚ねー」で済ましてしまいますが、親魚を見ると異口同音に「きれいねー」との声が聞こえます。私がランチュウを初めて見た時、奇異なものを感じ、まさかこんな魚に血道をあげるとは思いもよらぬことでした。土佐錦魚には最初から人を夢中にさせる魅力が備わっているようです。
 子供の時は、赤い木の葉のような金魚を見て「可愛いな」と思った沢山の人々が金魚鉢へ入れることが始まって、やがて、種々の金魚へと馴染んで行きました。そして、各金魚個々の特徴がそれぞれに好まれ、土佐錦魚はその稀に見る美しさによって選ばれてきました。土佐錦魚はその華麗さこそが生命だと思います。
 華麗な孔雀に求めるものは大鷲の力強い翼ではなく、
 大鷲に孔雀の華麗さは不必要です。
 それでは、土佐錦魚に力は必要ないのでしょうか。
 それは力あってこその美なのです。
 その美しさは力に支えられているのです。
 双方が相まってこそ本領が発揮できるのです。
 土佐錦魚は力の中に美しさがあるのではなく
 美しさの内に力が秘められていると。

審査とは
 そこであなたが単に土佐錦魚を飼い季節を感じ楽しむだけなら、金魚愛好家の一人として、さほど苦労もなくやってゆけるでしょう。ところが、あなたが素晴らしい土佐錦魚を見た途端『何かを感じたら』そして、そのことを語り合いたくなったら数年後には、『なんでこんなことを』と思うような苦労が始まるのです。そして、その苦労を楽しみに変えてしまうのが観賞のひとときです。
そのひとときをもっと愉しくするには、もっと深く味わうにはどこから始めたらよいのでしょうか。審査の要素はこのあたりに大きく関わってきます。
 土佐錦魚が自分を精一杯現している姿は、どうしてそう魅せているのでしょうか。その訳を一つ知るたびに何倍に、もう一つ知る度に、何十倍にも楽しみは、大きくなって行きます。そして、土佐錦魚に感じた何かを意識的に見ることができるようになり、語りあう言葉の多くを自然に選ぶことが出来ます。
 それは沢山の魚を見ることから始まります。
 そして良魚を多く見ることによって知ることが出来ます。
 そして多くを知ることによって、評価が生まれ、
 その評価は鍛錬することによって、熟達して行きます。
 評価は審査をして判定を下した結果です。
 審査は判定を下すための、業とも一つの術ともいえます。
 
審査はどうしてするのでしょう。
 土佐錦魚はそのさまざまな成長の段階で、
 様々な季節で、
 さまざまな人によって、
 様々な理由で判定を求められるからです。
良い魚が集まる機会を逃さずにコツコツ根気よく見て行くと、好みが生まれてきます。その好みが自分なりの評価につながり、やがて好みの尺度で自分なりの物差しを作り上げ、その物差しで魚を見て、育てて楽しむことが出来ます。そんな頃は、同じような物差しを持つ人達と語らうことがとても愉しく、いつの間にか夜の開けることもしばしば経験するでしょう。
 そして、その頃には、
 基本的な理解力と、
 多少の識別力と、
 幾らかの経験と、
 今までのものに加わる新たな美意識を身につけることが出来ます。
 このあたりから、楽しみにとして身につけてきたことの他に、
 もっと知りたい探究心と、
 理想の魚を作ってみたい欲望と、良き友と交わす競争心とが絡み合って、いつの間にか深みにはまってしまいます。
 土佐錦魚の写真を観賞するだけなら、面倒な飼育の知識を学ぶ必要はありません。審査の内容総てを知る必要もないのです。
 でも、土佐錦魚を本格的に『やろう』と思ったら、誰もが見方、作り方を習わなければならないことを知っています。
 土佐錦魚という伝統の歴史的既成の尺度とあなたの尺度が近づき、やがてその枠に収まった時あなたは、土佐錦魚の担い手の一人として、審査に携わり、判定を求められるでしょう。
 ところが、判定となると知らないうちに楽しみは姿を消してしまいます。特に、良魚の判定となると、
 知識に基づいた理論と経験と記憶と、
 感性から生まれた美意識を複合した人格を以て、
 客観的な視野のうちに、常識を踏まえて、
 好みを遊ばせる余裕を求められるからです。

次号へつづく

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