二〇〇〇年 平成十二年三月発行
二〇〇一年 平成十一年度 第二四回会報より 玉野叔弘

土佐錦魚は

 第二十四大会もにぎやかに終わりを告げました。この盛況は近年急増した新入会員によるとこるが大きく、歓迎の喜びを隠せません。当会も西暦二千年に二十五回を迎えようとしています。この四半世紀を良い機会として、会を維持してきた会員は、初心を振り返り、新しい会員の方々には、土佐錦魚とはどのようなものか、また、会とはどのような理念に基づいているかを知って頂き、土佐錦魚を飼う事に、当会の会員である事に、少なからぬ誇りを手にして共に、二十五大会回への歩みを進めて行きたいと存じます。
 土佐錦魚の歴史を掻い摘むと、江戸時代の参勤交代の折りに江戸より持ち帰った和金と後の流金が一つの元とされています。学者の一説では流金の突然変異がありますが、この説は土佐錦魚から導き出されたのではなく、流金から引き上げられたのではないかと推察します。
 ともかく和金、流金を江戸ルートとすると、もう一つ日本海ルートがあります。中国から来たマルコが島根のナンキンへ、そして大阪ランチュウへ、その大阪ランチュウが土佐へ来ました。土佐錦を創った須賀氏が田村さんへ語った、大阪ランチュウと流金との交配説です。
 この説は最早疑う余地のないところです。須賀家は禄だけでは食べてゆけず、副業に金魚を養っていたそうです。そこに江戸ルートの和金、流金と日本海ルートのナンキン、大阪ランチュウの存在が推測でます。矢野城桜氏著の土佐錦魚の四季その飼い方と歴史に、和金が掛けられていても、否定は出来ないことが記されています。土佐錦魚はそれほど古い訳ではなく、私達と田村氏の交流、田村氏と須賀氏の親交と繋がっています。複雑な交配の歴史が、いまだに不安定な遺伝子であることを、うなずけさせます。
 須賀家が江戸時代から明治に創り、方々が協力して大正に基礎を成し、戦前に隆盛を極め、戦火と南海大地震から復活を成し遂げた田村翁伝説とつづきます。そして、野中氏、近森氏が天然記念物指定に尽力し、保存の意を以て全国に広めました。その時の言葉に、
「高知の人間はイゴッソウでいかん、じきに気が変わって錦魚を止めてしまう。会が出来たり無くなったり、このままでは錦魚が絶える」
 現に、私達が行く少し前頃から発会の気運が高まり、天然記念物指定をもって活動が本格化しました。その頃には会報や土佐錦魚を示す図解、解説も作られていませんでした。
 ですが一度会が纏まるとそのエネルギーは凄いものです。その真っただ中に私達は飛び込んで行きました。
 当時田村翁は、高齢で錦魚を飼育されていませんでしたがバリバリの審査員長でした。大会審査員は門田氏、野中氏、近森氏、矢野氏、刈谷氏、下村氏、沢村氏ですが、つわものの集まりです。喧々諤々、自分の魚が優勝して当然の面々です。欠点が有ればぼろくそに罵られます。
鼻瘤と目幅があるとカエル呼ばわり。
背瘤があるとエサやって水替えてるだけや。
腹が出てないと和金飼ってるのか。です。
 側で見ていると殴り合いになるのではと、ヒヤヒヤものです。上位六尾が選ばれましたが、収まりがつきません。いよいよ審査員長の出番です。誰しもが意義を唱えません。 
最初は頬の傷で、
肌の僅かな荒さで、品に影響した二尾がまず下がりました。次は手術の跡が目立たなければ優勝の魚。
安定感はあるのに腰の深さがもう一重の魚。
品の良さの上に金座が大きく、力強く、体に力を秘め、尾を華麗になびかせている魚が選ばれました。
 土佐錦魚の第一は土佐錦魚らしさと教わりました。らしさとは持ち味を保っている事ですが、裏返すと他の金魚とは違うと言う事です。ここに土佐錦魚の成り立ちが大きく関わってきます。
 流金とも違う、ナンキンとも大阪ランチュウとも違う、交配種それぞれの特徴を採りながら、その他の採用しない特徴は否定しています。
  肯定して拾い上げた特徴は
 ナンキンの細い口、腹形、双方を繋ぐ線、なめらかな肌。
 大阪ランチュウの尾の厚み、平付け、腰。
 流金の背鰭と丸い体、大きな尾。
これらに土佐の陽と風土が相まって、土佐錦が出来上がりました。
  否定して捨て去った特徴は
 ナンキンの背と流れぎみ、細めの筒、小さめの尾。
 大阪ランチュウの背と口先、目幅、肉瘤、尾の大きさ。
 流金からは背の盛り上がり(胸の出、腹の下がり)山付け
高付け。
 和金からは全てであって、並べるまでも無いのですが、体長、腹形、筒伸び、尾形等。
 全ての種から四つ尾、深い桜尾。
大分土佐錦が見えてきました。土佐人のセンスが光っているようです。
 この複雑な絡み合いは子を採ると更に顕著になります。鮒尾は当たり前ですが、帆柱が出たり、綺麗なランチュウのような背が出たり、中国金魚の珍珠鱗はこの頃でも出ます。以前は頂点眼、水胞眼、花房、ハッキリとしませんが茶金、青文らしきもの。
 黒子の時に、平から山へ、山から平へと移る変化、その一時にランチュウのような泳ぎを見せる時があります。そして、口が大きくなりやすい、鼻瘤が付きやすい、目幅が出やすい、出目は先頃の高知の方が、黒出目金を掛けてしまったので除外します。肉瘤が出やすい、背肉が付き易い、体長が短くも長くもなりがち、背高が低くかったり高過ぎたり、腹が凹み易い、腰や筒が流れやすく伸び易い、筒の付きが高い、前の付きが山になる。
 多くは体を強調しています。尾は土佐で創り上げた要素が大きく、体は掛け合わせの要素が大きいからです。
 土佐錦の尾に流金の体を付けたり、まして和金の体を付けたり、大阪ランチュウの肉瘤を付けては、土佐錦ではないのです。
 当会初期の品評会に出陳されたカエル顔の魚を見て、金魚通の外国人が、「これは土佐錦魚でない」と歯に衣着せぬ言い方をしていたのを思い出しました。
 では、教えや審査に当てはめてみましょう。
土佐錦はおちょぼ口がいい、
目先がある(良くて長い)目先がいい(長く尖っている)、
目幅が広くしては駄目、出目も、
頬は傷無く痩けない、
鼻瘤を付けない、まして肉瘤も、
口先から腹への線が滑らか、
腹形は後腹が張り福与か、口先へ三角を感じさせる、
鱗は細かく整然と並ぶ、鱗を感じさせない肌合い、
 (口先から腹にかけて品を象徴している事が解ります。
  ナンキンの特徴が多く示されています)
口先から額、背にかけて段差無く滑らか、
背瘤、胸瘤なく、
下腹を垂れさせない、
背幅がある、背と腹のつながりが滑らか、
背高が適度にある、
背から筒に締まりがある、
尾筒に太みがある、
筒の折りがいい、流れない、
筒に伸びが無い、縮みが無い、
 (流金へ近づく事を戒めているようです)
 (背、腹、腰に体の力が集中しています。
  体と尾をつなぐ筒が双方に影響を及ぼしています。)
平付けであること、山付け、皿付けでないこと、
付きはあくまでも水平、
付きは高くないこと、低くは望まれる、
金座が大きいこと、
 (背幅、筒、付き、金座はランチュウを採用しています。)
 (金座を含めての付きが尾を左右しています。)
親骨が太い、
渡りがある、
迫り出しがある、(迫り出ししていない型もあるので注意)
抑えている、
袋が大きい(親で完成されれば良い)、型は大別して三種、
前と後のつなぎに余裕がある、(無い型もあるので注意)
後が大きい、(親で完成されれば良い)
幅がある、
長さがある、
厚みがある、(薄くてもシッカリした型もあるので注意)
三つ尾、桜尾の軽度なもの、
朝顔(唐傘)が大きい、
 (ランチュウの尾の強さ、流金の大きさを採用。)
 (本質的でない欠点の曲り違い等は省いてあります。)
均整がとれている、
安定している、
骨格がシッカリしている、
筋が通っている、
素直、
味がある、
品格、風格がある、
力がある、
極めている、
 全体が大きな円に納まり、体、尾、前の左右、後が小円にまとまります。合理的でまさに芸術。
 土佐の先人は、なんと素晴らし錦魚を生み出してくれたことでしょう。驚嘆と尊敬をたずさえて、多いに感謝させて頂きます。
 この教えは田村氏、宮地氏、近森氏、野中氏を代表する当時の皆さんが、惜しげもなく与えて下さったものです。あわせて感謝申し上げます。
 東京人は年一回、大会見学の折が直接のチャンスでした。初心者の特権で初歩の初歩から、そしてランチュウの経験を基にした、少し突っ込んだ質問を矢、継ぎ早に浴びせかけました。熱心で押しまくり、飼い方見方そして、土佐錦魚とはどういうものかを学ばせて頂きました。
 会報の土佐錦魚参考、審査規定のあらまし、図表もこの時にまとまりました。暖めておいた下書きを高知へ送り、
「良く出来ちゅう」のお言葉をお言葉で、会報の指標とさせて頂きました。三十年余り前の出来事です。書き添えることもありますが、高知の教えを尊重してそのままにしてあります。
 当時教えを頂いた若手(五十代は若手と称していました)の年齢に私共が達してしまいましたが、現実、教えの全うはおぼつかず恥じる次第です。未だ真似すら出来ていません。幸い模索を経てこの頃では似た水になってきました。少しは錦魚と話が出来るようになりました。このご恩に報いることは、受けた教えを次に渡すことに他なりません。
 それは伝統のままに。
 これが東京土佐錦魚保存会の保存の意味の一つです。
 個人を超えての役割として土佐錦魚を堅く示し、導く、審査はこの一つと言えます。
 少し話が硬くなりましたので田村さん、宮地さんの話をしてみましょう。まだ自動車が一般的でない時代の話ですが、その頃の品評会は、リアカーに丸鉢を乗せて会場へ出かけたそうです。あの重い丸鉢を出陳魚の数に合わせてですよ。聞いた時は目を丸くしました。暑い高知でさぞ汗をかいたことでしょう。魚は杉や漆塗りの提げ桶に入れて運んだそうですが、不思議と酸欠にならなかったそうです。昔の番付を見ると十尾も入賞した人がいます。と言うことは、あの重い丸鉢が十個以上必要です。酒屋のご主人などは、小僧さんを伴っていたそうです。でないと、十個以上も出陳できませんね。そんな道楽旦那が田村さんのお客さんでした。ちなみに田村さんは大工だったのですが、錦魚好きが高じて錦魚屋になってしまったのです。ここまで話が進んだところで、今まで黙って側にいた奥さんがぽろっと一言、言いつけられた錦魚の世話を、言われた通りにしていないと、
「よう茶碗が飛んできたもんや」
黒子達を茶碗で一杯いくらで分けていたそうです。
錦魚飼いの奥さんはいつの世も大変なんですね。
 ところで今、あなたにリアカーへ丸鉢を乗せて引けと言ったら、土佐錦を止めてしまうのではないですか。土佐錦を脈々と伝えてくれた重みを。コンクリートの重みと思って、シッカリ受け止めて下さい。
 宮地さんは精米所の二階の南向きの部屋で、ベッドの枕元が直ぐ窓で、ガラス窓を開けると丸鉢で、四五センチの仕上げ鉢が並んでいました。数年、宮地型と言える、特徴ある魚を見せて頂きました。高齢でしたので子引きはされず、夏にあちこちから黒子を収容数だけ集めて入れていました。もう大分前からそうしているそうです。それ以前は子引きはしていましたが、ミジンコを若手に届けてもらっていたそうです。その若手の一人が近森さんで、ミジンコを届けて少し大きくなった黒子を貰うのが楽しみで、通う度に質問したり貰って帰った黒子を眺めたりして。
 宮地さんが子引きをしなくなると、夏に黒子を集めにくるようになりました。丸鉢をぐるっと見てから、
「これ」近森さんは慌ててだめだめ。
次の「これ」また首を振る。
宮地さんが選んだ魚は必ず良くなるそうで、三番目と四番目は提げてもらう訳です。でないと来年からこなくなる。宮地さんも解っていて教えて帰る訳です。いい魚を示すと同時に欲しくなるような魚を、近森さんが育てていることに安心。上の二尾を残して来ることに安心。土佐錦魚の前途を安堵されたことと思います。後ろ姿は沁み沁み幸せだったとおもいます。
「宮地さんは名人だ、私なんか土佐錦を飼っているだけだ、宮地さんは作っている」近森さんにして言わしめた言葉です。年寄りを大事にして敬うこと、学びとること、いつまでたっても学ぶ心、いつまでも楽しむ心が、こうした昔話から何気なく伝わってきました。
 もう少し、近森さんを通して昔の高知を見てみましょう。
近森さんが保っていたあの大きな尾の系統、円からはみ出してしまう程です。もう見られなくなってしまいました。薄く透き通るような尾場は、下に何が有るか判るような、幻想を見るような、水に漂う花弁はそれでいて垂れない。いつか復活させたいものです。近森さんが師と慕った人から受け継ぎました。この方は魚に人を近づけるのを嫌がり、あまり魚を見せてくれなかったそうです。
「その鉢の側に行っては駄目だ、魚が動く」と言って。
 私は可愛がってもらっていたので、見せてもらいました。
 魚を作るのにそれ程神経を使って、微妙に繊細に魚を知って魚に注ぎ込む。飼い主の感性の趣く芸術なのです。
 ライバルとしての他方の巨匠は、体に締まりがあって口が細くて、尾に厚みがあって、当歳の尾は小振りでも親になると見事な横綱舞、まったく違った系統でした。
 元々錦魚飼いは偏屈ですが、高知ではその上にいごっそうが乗ります。巨匠同士直接の魚の交換はなかったそうですが、次期後継者の野中氏、近森氏達若手が出入りして仲立ちを務めます。そして忘れてはならない田村さんが、錦魚屋として平等に接します。つわものには各々系統の型があり、その血が色濃く反映されます。血が濃くなると別な血統を入れる。上手く相性が合うと三年独占する。三年経つと目先が悪くなり、もっと悪くなるとカエルになる。
 ライバルがしのぎを削って、そこに、年寄りと若手と錦魚屋さんのサイクルが上手く働いて、高知の黄金期が成り立っていました。私が行った時には花が咲き乱れているようでしたが、面々には先々の不安が見えていたようです。天然記念物の指定を果たし、県外解禁をしてくれました。ここに幻が私達の目に触れるようになったのです。
 高知から当会設立の要請を受けたとき、最初は乗り気でありませんでした。まだ土佐錦に接して十年経っていなかったからです。まだ無理がありました。
「土佐錦は十年経ったら一人前か判断する、それ迄は小僧や」と言われていたからです。高知の人は三年も飼うと先生になる人がけっこう居ます。その戒めだったのでしょう。東京が一人前になるまでは練習です。高知から審査員が来てくれることでまとまりました。
  そして戒めは。
*高知では土佐錦魚を、知ろうとせず、学ぼうともせずに、
 この型が好きだと押し進める者がいる、これをしないこと。
*審査員になって審査を自分の好きにしたがる者がいる、これ
 をしないこと。
*会を自分の意のままにしたがる者がいる、これをしないこと。
*会が分かれるから派閥をつくらないこと。派閥をつくるような審査をしないこと。
*東京は人口が多い、勢力はやがて高知より大きくなるだろう
 その時に高知を下にしないこと。
 高知から土佐錦を出すにあたって反対した人も居たそうです。その人は、東京が高知より強くなることを心配していたそうです。そして止むなく出し時には、雄か雌のどちらかだけしろとまで言っていたそうです。
 高知で陥った失敗を新会のために教えて下さったものと、戒めを謙虚に受け止め、会長制をとらずに、皆の合議制にしました。その全てを守ってこれまで歩んで来たと自負しています。
 会は個人の方向が正しいかを常に見守り、必要があれば修正を求め、土佐錦魚を守り発展させます。
 例えば、曲りや違いのある魚は誰でも悪いと分かります。でも、背瘤のある魚は一見力強く感じます。これは背瘤が付く程に肉付きを良くしたことになり、背瘤は力を現すことにはなりません。もし背瘤を力の表現としたら、鼻瘤も肉瘤も力の表現となってしまいます。言うならば無駄な力を表現していると言えます。それは品を落としてしまうので、そうしないよう指導しなくてはなりません。
 特に高知の気候では簡単に付いてしまいます。背瘤を付けては不可ないと知らなければ、まず十人が十人とも付けてしまうでしょう。口を細くして、鼻瘤、背瘤を付けないで飼うことより、十倍も百倍も容易いことですから。
 丸手に背瘤を付けて体を丸くすると、ひっくり返り易くなります。すると安易に丸手は駄目だ長手がいい。長くすると流金ではなくなりますが、和金に近づいてしまいます。長手の目先が悪くて、鰓よりも腹が凹んでいたりしたら、最早醜態を曝すことになります。土佐の先人になんて詫びたらいいのでしょう。先人がせっかく理想の型を確立してくれたのに、後の人が壊していく、伝統を曲げてしまう。しかも、それをしていることに気が付いていない。なんて不幸なことでしょう。
 会は、そんな不幸を示して、防がなくてはなりません。

 ここに土佐錦魚への芸術性を深め、意識を新たにして戴くために、たかが錦魚を音楽に重ねてみました。
土佐錦魚を創った人と確立した人を作曲家とします。
創られた錦魚を曲として楽譜として。
曲の作られた環境が気候風土。
血統は音符。
丸鉢は楽器、そして音楽ホール。
会は指揮者です。
そして土佐錦を今に作る貴方は演奏家。演奏家は観客のようにただ聴いたり観ているだけではありません。
楽譜を読んで理解し、本当の意味を理解して。
作曲家に誠実に向き合わなければなりません。
その楽譜をみて、頭の中に奏でることができるように。
作曲家の意図通りに素晴らしく。
一音一音に緊張して、楽譜に画かれた感動を演奏で伝えます。
これ程に自らを律し、理解と情熱を深める。
貴方は楽譜を書き変えるのではなく。
より素晴らしい演奏が出来るかです。
美の神髄を深めるかです。
時に自分の演奏は。土佐錦魚は。
音が消えるように生き物として消えて行きます。
そして貴方の演奏で、再び産まれてくるのです。
土佐錦魚を伝えてくれた先達が、貴方を誇りに思うように。
二十一世紀へ土佐錦魚を引き継いで下さい。

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