二〇〇〇年 平成十二年三月発行
一九九九年 平成十一年度 第二四回会報より 玉野叔弘

野中 進氏 永眠

 当会顧問理事及び顧問審査員、野中進氏八十四歳が平成十一年十二月十七日午前零時四十四分、永久へと旅立たれてしまいました。十九日のお見送りに際しまして、心より黙祷とお花を手向けさせて戴きました。
 本会の顧問理事はとうとう一人も居られなくなってしまいました。これは戦前の栄華の面影が、田村氏、宮地氏と共に去り行き、戦後に復活された繁栄の一時代が、野中氏と共に終わりを告げたことを物語っています。当会発足よりお世話になった方々がポツリポツリと逝かれ、刈谷氏、門田氏、矢野氏、近森氏、野中氏とその度に感謝の念と淋しい思いに駆られました。当会発足当時二十五年前になりますが、野中氏より戴きました言葉は、今でも強く思い出されます。
 「高知のもんは判官びいきじゃきに応援しちゃる」
 以前採り飼い方、観方、種魚とお世話になっておりましたが、より一層の面倒をお掛けすることになりました。東京にての度重なる審査の際には、憧れの錦魚に近づきたいの一心で耳をそばだてたことを、昨日のように思い出されます。夏に送って頂いた当歳は、いつもヒョロヒョロしていましたが秋に高知へ行くとチャンと腹が出ていて、しかも口が細い、骨格もシッカリしていて腰折れもいい、鱗並みが良く、体は締まっている。元気に鰭がピンと立って、厚みがあって当歳では小さめの尾だが、親になると大成している。今でも目に浮かびます。いくら質問しても面倒がらずに答えて下さり、目にとまった錦魚をお願いすると「たまらん」と言いながらも笑顔で「そっちはいかん、こっちにしいや」東京から来たらさげて帰れるように、多めに残しておいて下さいました。
 大会の夜の宴会では、審査の喧噪をつまみにして打ち解けた雰囲気、一番お酒の好きな門田さんが酔いつぶれると、野中さんが担いで階段を下りる、近森さんが家まで送る。錦魚だけでなく、錦魚を作り楽しみ支える高知の方々にも、魅かれていたのだと、今になって気がつきました。
 これからは、教えて頂いたことを伝えて行くことも当会の使命ですが、更にご恩に報いるには、高知が種に不自由している時の支援等、以前にも増した交流が必然となる筈です。
 また、先輩方々の業績や資料が形として遺っていなことに気がつきました。収集保存も協力して進めて行く所存です。
天然記念物指定実現に尽力され、
土佐錦魚の行く末に憂慮を重ね、
東京、全国に多くの魚を提供され、
錦魚好きに惜しまぬ教えを下さり、
その魅了する錦魚と親身な人柄で全国に錦魚飼いを増やす。
その限りない業績はどんなに称えても余りあるところです。
近森氏が土佐錦の父ならば、
野中進氏は土佐錦の母と言えましょう。

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